ブロガー同士の縁をつなぐもの~トラックバック?SNS?~
他の方が書かれたブログ記事にヒントを得て、自分のブログ記事を書く時というのは、ブロガーなら結構あるパターンだと思います。そんな時、どうしてますか?というお話です。
ちょっと前に話題になった「俺のブロガー精神論」でシロクマさんが、次のように語っています。
いみじくもブロガーを自認する者なら、ブログ記事をもって、他のブロガーと繋がるのが第一ではないのか。長文に対して長文でもって応じたり、異なる視点のトラックバックを送信したり、そうこうしているうちに「おっいつもの○○さんか、今日は何を書いているのかな」と相互認知が進んでいってブロガーとブロガーが繋がる……それがブロガーの人の縁ではなかったか。
SNSでのインスタントな繋がりもあるけれど、やっぱり「ブロガーとしての濃い縁の繋がり方」というものがあるでしょ、というシロクマさんのこの言説には強く共感します。長文(ブログ)には長文(ブログ)をもって応じて、というところは特にそうですね。ちょっと何か思ったというだけでなく、自分の思考がかなり進化したような場合は、やっぱりしっかりと書き記したくなるものです。
一方で、「トラックバック」という機能は、僕は使ったことがありません。自分のブログに来たものを見たことはちょっとだけありますが、送ったことはないです。そもそもコンセプトがややこしい(いろんな形で使いうる)し、何より見てくれが無機的、というのが原因なのでしょう。ともかく使う気がおきないのです。
で、どうしているかというと、良記事を見て引用させてもらった時は、原則作者の方に直接お伝えするようにしています。相手のブログのコメント欄に書き込ませて頂くか、メールを送るか。どちらの手段もない時は、致し方なくTwitterでMention飛ばすですかね。
やっぱり、引用させてもらったよということは自分の言葉で伝えたいですし、相手の方も大抵の場合喜んでくださいますので。僕自身、自分の記事をヒントにどなたかが何か書かれた場合、ひと声でもかけて頂ければすごく嬉しく感じます。
我田引水になりますが、こうしたブロガー間の「交流」をするのに、MessageLeafはうってつけです。TwitterのMentionとは異なり相手に確実に伝わりますし、コメント欄やメールフォームに入れる手間や恥ずかしさも、もちろんありません。
一つだけ難点があるとすれば、他人のブログにMessageLeafを送るときは、「顔バレ(Facebookのアカウント名と写真)」するので、シロクマさんのように匿名のブロガーが「引用したのでありがとう」みたいなメッセージを他のブロガーに送るという使い方はやりにくい、ということでしょう。(う、それに、シロクマさんが使われているのは、MessageLeafが対応できない「はてなダイアリー」だったりして。。。)
シロクマさんが書かれているように、「長文をアーカイブ化できるというメリット」を備えているブログは、これからむしろ本当の力を発揮すると考えています。もっともっと多くの「新興ブロガー」が出てきて、ベテランも含めてお互いが触発し合う世界のインフラとしてMessageLeafが機能していく。そんな形を目指していきます。
閉じこもる日本人、飛び込む日本人
日本を飛び出て、ジャカルタでGlobal企業の営業職として働いているかんちゃん(@kanchan_r)さんという方が発信している、「Keep Rockin’! BRO!」というブログがあります。前回エントリー(http://messageleaf.hatenablog.com/entry/2013/01/15/232038)で紹介したGunosyの推薦記事で、「ジャカルタのショッピングモールに日本人が見当たらない理由」という興味深いエントリーに行き当たり、出会いました。
<イケてる駐在員とイケてない駐在員の違い>
この記事を見ての第一印象は、「あぁ、90年代の風景と変わっていないなぁ」です。
僕が1990年代に日本のメーカーの海外部で東南アジアビジネスにどっぷりと浸かっていた頃、数多くの日本人駐在員を見聞きしてきました。
この地域での「イケてない駐在員」というのは、記事にもあるように、「休日は(日本人同士で)ゴルフ」、「夕食は(半分以上は)日本料理店」、「夜は馴染みの(片言の日本語が喋れる)女性がいる店でカラオケ」というのが定番でした。いわゆる典型的な「日本のオッサン」の行動パターンですね。
「イケてる駐在員」がゴルフをしないわけではありません。まあ日本料理店やカラオケもたまには行くでしょう。現地の人との経済格差だってもちろんありますし、足を踏み入れて良い場所と日本人がうろうろしたらアブない場所があるのも事実です。それでも、イケてる駐在員は、自分の脚で歩き回り、現地語を習得し、現地の人との距離感を自分の肌で感じ取りながら仲良くなって、「現地化」していくのです。そうした姿勢で仕事をしている人は、現地従業員から尊敬もされるし、現地のビジネスパートナーからの信用も勝ち取っていきます。そして、現地にどっぷりいるからこそ知り得る、値段も味もイケてるローカルフードのお店をたくさん知っていたりします(^^)
<人生の保守と革新>
海外に出た日本人が群れがちで自分たちの殻に閉じこもりがち、というのは、留学生でもそうだし、ずいぶんと以前からずっと言われ続けていることです。
では、何で殻に閉じこもってしまうのでしょうか。
僕は言葉の問題はゼロじゃないけど、副次的なものだと考えています。だって、日本語でも会議となると「丁々発止の議論の場」というより「予定調和の儀式の場」にしたがるオッサン多いですもの。それよりも、異物(異なる環境、意見、人)にぶち当たることに対する怖れであったり、そうなった時に自分が今まで築いてきたものがゼロになることの怖れであったりというところが、真因でしょう。変なプライドを捨てられないんですね。
逆に殻を破って飛び出られる人は、それまでの居心地の良さを捨てて(茂木健一郎さん風に言えば)偶有性の海に飛び込む勇気を持っているのです。先述のブログでかんちゃんさんが「環境と意志があれば自分を変えられる」と書かれていますが、この「意志」がまさに「偶有性の海に飛び込む勇気」です。
政治の世界の「保守」と「革新」は、どっちが保守でどっちが革新なんだか最近さっぱりわからないのですが、個人の「保守」と「革新」は、この偶有性を忌み嫌うか歓迎するかの生き方の違いで鮮明に峻別される。そして、これからの時代は間違いなく「革新」が求められます。
90年代当時と違うのは、かんちゃんさんのような若者がいる、ということかもしれません。
「イケてる駐在員」といえど、日本企業の看板も現地での役職も背負っていますし、そういう人は何年かすると日本に帰っていくと現地の人は知っていますから、「現地化」のレベルは限られています。
でも、かんちゃんさんのように好むと好まざるとに拘わらず身一つで現地に飛び込んで行って、そこで何とかしようというのはそもそもの覚悟が違います。それほどの覚悟でこちらの世界に飛び込んできた外国人が目の前にいた時、きっと現地の人との間で起きる化学反応も、まったく違う次元のものになることでしょう。
偶有性の海に飛び込んで海外で活躍する若い人たちがこれからも次々に出てきて、「和僑」という言葉が一般的になる日がくるのが楽しみですし、自分自身もどんなに年齢を重ねても「革新」の気持ちを保って外の世界に飛び込み続けていきたいと思っています。
Gunosyが示す新たなブログの時代の可能性
<Gunosyは「自分新聞」>
昨年末から、キュレーションの力が話題になっているGunosy(http://gunosy.com/)を導入しています。スマートなパーソナルマガジンを標榜しており、TwitterアカウントやFacebookアカウント、はてなアカウントから自分の興味を分析し、興味にあったニュース・記事を推薦してくれます。
本日私宛に送られてきた記事はメール上でこんな感じ。(私はPushがあった方が行動に移せるので、メールでいつも見ています)
Gunosyの良いところですが、やはり何と言ってもその「キュレーション(選別)力の強さ」です。
評判通り、「おぉ、こういった記事を探しているんだよね~」という“掘り出し物”を、推薦してくれます。いわゆるメディア系の記事だけでなく、Togetterだったり個別のブログ記事だったりと、かなりソースが広範囲に及んでいるからなのでしょう。
HuffingtonPostにしても、GoogleのNewsにしても自分で選別してある程度のカスタマイズはできますが、それぞれソースが「寄稿」している記事であったり、マスメディアのニュースであったりと限られてきます。GunosyがWeb全体を相手にしている以上、こちらの方がより網羅性がある。そして、記事が送られてくるタイミングや頻度・量を自分で調整できるのも良いところ。
言うなれば、「自分新聞」なわけです。自分で毎日している情報収集というのは、かなり広範囲のブログなり記事なりをRSSリーダー、ニュースサイト、ソーシャルメディア等を駆使して定期的にフォローして「選別」しているわけです。でも、「選別」するためにかかる工数が莫大ですし、選別したところで満足しちゃって、記事をじっくり読み込むところまで至らないことも多々ありまして。(皆さんも、放置気味のブログリーダーありませんか?)
なので、佐々木俊尚さんのように自分の感度にも非常に合う方のキュレーション情報が役立つわけですが、それだけでも済まないので、上記のようにかなりの工数をかけて情報収集をするわけです。でも、「自分新聞」が自動的に送られてくるようになっていれば、こんな苦労も要らなくなります。
今のところ、連携先(私の場合はTwitter連携にしています)の情報のみを拾ってキュレーションかけているようなので、全面的に頼るには不十分ですが、ブラウザ上の情報をうまく渡して普段閲覧しているニュース系の記事の特徴を覚えてもらえれば、佐々木俊尚さんのメルマガとGunosyがあれば、自分自身でキュレーションする必要はもはやなくなるかも、くらいに感じています。あとは多言語化対応してくれりゃぁ、言うことなしですね。
<新たなブログの時代へ>
さて、Gunosyのようなテーラーメードのキュレーションエンジンが普及して、「選別」の手間を経ることなく多様な「自分新聞」が誰でも手に入れられる世界になった時、今と何が変わるでしょう。私が予測するのは、次の2点です。
1)オリジナルコンテンツの価値が上がる
Gunosyの美しいところは、オリジナルコンテンツの価値を下げない、というより大きく上げるところです。メディア系の記事以外のオリジナルコンテンツをしっかり拾ってくれる上に、記事にはダイレクトに飛ぶようにできています。ここが最近話題になっている全文転載記事系のメディアとの大きな違いです。
そこから先のソーシャルメディアでの拡散も見込めるので、特にブログの価値がぐっと上がっていくと見ています。
2)コンテンツの作者と読者の距離が縮まる
これは自分の好みに合ったオリジナルコンテンツの露出が高まっていくために起きることですが、良記事と出会ってこの作者と交流してみたいな、と思えるような人が現れます。私自身も推薦された記事にすごく共感して、メッセージを送ってみたり早速ランチすることにまでになったりした作者の方が出てきたりしています。
以前ブログが流行っていた頃に言われていた「ブロゴスフィア」というのは、ごく一部の人たちの言論の世界、という風合いでしたが、ブログ記事のセレンディピティを演出してくれるGunosyのおかげで、すそ野がぐっと広くもっと密な作者と読者の関係があちこちに出来上がっていきそうな感じがします。
ここまで読んでお気づきの方も多いと思いますが、こうした流れは、ブログの作者と読者が直接つながるチャンスを広げるツールであるMessageLeafにとっても、大いに喜ばしいことです。
ということで、全然違うサービスなのに親近感を覚えるGunosyさん、応援してます!!
娘が一生使える「良く生きる力」を養うための4つの心がけ
遅ればせながら、皆さまあけましておめでとうございます。
普段から子供と接している時間は比較的長い方だとは思いますが、この年末年始は特に、冬休み中の3歳の娘とかなりの時間を共に過ごしました。
「三つ子の魂百まで」という言葉があります。持って生まれた性格は長じてもずっと変わらないというのが本来の意味だと思いますが、一方で、これくらいの時期に大人と触れ合う中で形作られていく土台みたいなものも多分あるんだろうなぁ、とも思います。
彼女が大人になる頃、いったいどのような世の中になっているのか、全く想像つきません。でも、これからどんな世の中になっていようと世界のどこで生きていようと、次に挙げる力は必ず「良く生きる」ことに繋がっていくと信じています。
インプットする力
・周囲で起きていることを良く受け止める“聴く耳”を持つこと
咀嚼する力
・根源的になぜそうなっているのかを考え抜くこと
・制約条件のある中で自分はどうしたいのかを考えること
アウトプットする力
・未知の世界に一歩踏み出す勇気を持つこと
・やっていることを楽しむこと
こうした力の礎を築くために、妻や自分が心がけていることを4つ、今日はご紹介します。
<なるべく長く“Why”の繰り返しに付き合う>
子どもには「イヤイヤ期」と同時に、「なぜなぜ期」があるように感じています。
「なぜ」と問いを発するのは、非常に素晴らしい習慣です。大人のビジネスパーソンだって、「5なぜ(なぜを5回繰り返せ)」をやるべしと言われるくらい、真因をしつこく考えるのは大事ですから。また、わからない時にわかったふりをしないで素直に尋ねることができる強さを持つことは、間違いなく成長につながります。
でも、子供が「なぜ?」と繰り返し聞いてくると、つい面倒くさくなって「そういうものなんだから」で「Why?」の気持ちにシャッターを下ろしてしまうこと、極めてありがちです。なので・・・
「なんで今日はパパお家にいるの?」
「今日はお仕事お休みなんだよ。」
「なんで?」
「今日は日曜日だからね。」
「なんで?」
「日曜日はね、お客さんもお休みしているからパパも休むんだよ。」
「なんで?」
「日曜日はね、お休みと決めている人が世の中多いんだ。XXちゃんの学校もお休みでしょ。」
・・・
という具合になるべくお話がつながるようにします。やっているうちに、自分でも何で本当にそうなっているのか、説明つかない時も出てきますけど(^^)
また、何をして欲しいか子供に伝える時も、なるべく感情をぶつけるのではなく、理由を逐一きちんと伝えるようにしています。悪意で言っているのではなく理由がそこにあるということをしっかりわかってもらうためですが、こういうことの積み重ねが根源的な理由を考え抜く力や、“聴く耳”を育てるのだと思います。
<トレードオフのある選択肢を出す>
この考え方は、以前娘が通っていた保育園お勧めのプライベートセミナーで聞いてヒントを得たものです。
例えば、歯を磨かずにもっと遊んでいたいと駄々をこねる娘に対して、
「今歯を磨いておねんねして明日もデザートを食べられるのと、歯を磨かずに遊んで明日デザート無しなのとどっちがいいの?」
みたいな形で、自分でどうしたいかを決めさせます。
読んでお気づきのように、ある程度“誘導”しているのですが、“強制”ではないところがポイントです。制約条件のある中で自分がどうしたいか考えて決める方が、「XXなんだからあなたはこうしなさい」と押し付けられるより、納得して行動できますからね。
一般に、日本の社会はこの「押し付けられ感」が学校教育の中にも組織行動の中にも、極めて大きな存在になっている気がしています。そうしたプレッシャーの中で考えることを止めて素直に従ったり、イヤイヤやったりするのは、どちらもあって欲しい姿ではないのです。制約条件がある中で考えて納得したうえで自分の行動を決める、そしてその選択をした自分自身に対して責任を持つようになって欲しいですし、そのための訓練をこの年齢から始めるのは悪くないなと思っています。
<オリジナルなアイディア・やり方を褒める>
パズル遊びをしている時に思ったことがあるのですが、子供が迷った時に、大人は「定跡」をついつい教えがちです。パズルだったら、「端っこから埋めていけばいいんだよ」のように。ちょっとしたヒントを示唆するくらいであれば良いのでしょうが、どうしても必要以上に“教えて”しまいがちだなぁ、と感じています。
子どもって、「こういう風にやったら」と言われてやるのは、やっぱり面白くないんですよね。こうすればいいんだよ、ってこちらが見せようとすると拒絶したり、もう止めてしまおうとしたり。小さいなりにプライドを持っているわけで、やっぱり自分で「お、こうやればうまくいくんだ」という体験ができるから、パズルも面白いわけです。
とはいえ、あまりにうまくいかないとそこで放り出してしまうことになるので、うまくおだてながらトライし続けてもらうようにしています。そのうち「へー、そこから攻めるのか」というやり方を自分で見つけてきたりして。オリジナルなアイディアなりやり方なりを自分で見つけてやったことに対しては、すかさず思いっきり褒めてあげます。別に、それが一番効率良いやり方かどうかということは関係なく、自分のアタマで考えて自分なりの答えを出したこと自体が、とてつもなく尊いことなので。チャレンジしたことが偉いのです。
この積み重ねが、自分から一歩踏み込んでトライするクセにつながってくれたらしめたものです。
<やってる遊びを一緒になって真剣に楽しむ>
年末年始に一番気になった言葉が、為末大さんの「『一生懸命』やってる人は『無我夢中』でやってる人に勝てない」、です。これ、自分の経験に照らし合わせても、やっぱり真実だと思うんですよね。
遊びでも何でも没入できることが大事。なので、娘と遊ぶ時、特に「ごっこ遊び」なんかやる時は、こっちも本気になって楽しんで遊びます。替え歌を作って一緒に踊ってみたり、何体もあるカエルの人形それぞれに名前を一緒に考えて付けて「なりきり」で声優役をやってみたり、とハタから見たら「アホちゃうの」というような恰好で。こっちが本気になって遊んでいる時は娘の目の輝きも違うんですよね。もっとも、小さな子どもは気に入った遊びについては「リピート」リクエストが重なるので、こちらも飽きちゃって付き合いきるのが苦しい時もままあるのですが。。。
ともかくも、五体で「Fun」を感じそれを表現することで、今やっていることを思いっきり楽しむ感覚を覚えてもらえれば嬉しいです。そんな遊びの中に「学び」も徐々に取り込んでいければ、理想的な「Fun learning」になることでしょう。
とまあ、ここまで書いて、自分たち自身でも全てきちんとできているわけではなく、手探りでやっている部分もままあるなと改めて思います。それでも、こうした心がけは続けていこうと思っています。親が子に残せる最大の資産は、一緒にいる時間の中で伝えられる自分たちの言葉と姿なのですから!
年の瀬のビックリ~「Thanks!」ボタン~
「いやぁ、こんなことあるものなんだな~」、とビックリしました。
昨日読んでいた日経ビジネスオンラインの記事、「『リーダーや経営者に必要な資質』で誰も指摘しないもの」の最後のページのことです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121225/241525/?P=3
この記事、面白法人カヤックの柳澤さんが連載されている「ビジネスという奇妙な冒険」のものですが、記事の最後に
面白法人が運営するありがとうを増やすサービス
THANKS
とあるではないですか!
そして、このTHANKSのウェブページを覗いてみると、「Thanks!」ボタンが存在しています。
http://thanks.kayac.com/ja/static/thanksButton
実は、MessageLeafの原型では、まさにこの「Thanks!」ボタンをイメージしていました。この辺りの経緯はソニックガーデンのHPに掲載されている「MessageLeafの出来るまで【その1】〜考えついたものは大体誰かがやっている〜」(http://www.sonicgarden.jp/110)にも出ているのですが、こうやって自分が考えついたと思っていたものが、まさにこのタイトル通りに「誰かがやっていた」わけです。(カヤックさんのHPを拝見したら、2006年にスタートしたもののようです)
「Thanks!」があふれることが世界を良くしていく事につながる、という世界観はMessageLeafが目指している世界観とも当然のことながら非常に相通じるものがあります。また、冒頭の記事中にある「人を善なる見方をする」というのは、MessageLeafというサービスが成立する大前提です。読者と作者、双方が互いに「善」を相手に見出すからこそ、付加価値が生まれると考えています。
何か、血の繋がった兄弟に偶然出会ったみたいな感じといったらよいでしょうか。
2012年は本ブログも含め、MessageLeafにとっては「誕生の年」でした。今年一年の読者の皆様の温かい応援に感謝いたします。
2013年、円高デフレから円安インフレへの大きなトレンド転換が起きた今、日本発の小粋なサービスや製品が世界に羽ばたく「グローカル時代」の幕開けだと思っています。MessageLeafも世界への飛躍の年にしていきますので、どうぞ本ブログ共々引き続きの応援をよろしくお願いいたします。
皆さま、佳い新年をお迎えください。
MessageLeafのグローバル対応
今般、MessageLeafでは、新たな機能追加により本格的にグローバル対応が可能になりました。ポイントは以下の3つです。
<ポイント①:管理サイトの英語版完成>
今までフロントページの英語版(http://en.messageleaf.jp/)はありましたが、管理サイト(http://www.messageleaf.jp/)やヘルプページ(http://help.messageleaf.jp/en/)が未対応でした。
今回、↓のような形ですべて英語対応し、世界中の方にご自身で設置・管理して頂けるような体制になりました。
~管理サイト(英語版)画像~
~ヘルプページ~
<ポイント②:WordPress.com対応版の作成>
MessageLeafは、今までWordPress.com(http://wordpress.com/)のAPI版では設置が不可能でした。これは、WordPress側でサイドバーの設置等を許さない形になっているからです。しかしながら、WordPressは全世界でサイト数が59百万近くになる、世界最大級のブログサービスであり、何とかMessageLeafの機能を持たせられないかと検討した結果、通常の右下からポップアップするのとは異なる形でボタン対応することにしました。
設置して頂くと、↓のような形になります。
~Wordpress.comを使ったブログでの設置画像(ボトム部分のみ)~
ボタンをクリックされた後は、MessageLeafの管理画面に入り、読者に直接メッセージを書いて頂くことになります。
<ポイント③:Tumblr対応>
Tumblr(http://www.tumblr.com)は、全世界で70百万サイトを超えるブログサービスです。このTumblrにもMessageLeafは設置可能であることが判りましたので、設置対応可能なサービスとして追加し、方法詳細を記載しました。
~TumblrでのMessageLeaf設置画像~
上記3つの対応に加え、既に対応済みのBlogger(www.blogger.com)につきましても設置方法の詳細を記載して、ITにそれほど詳しくないブロガーでも独力で設置して頂ける形になりました。
今回の対応により、Wordpress.com、Blogger、Tumblrという世界の3大ブログサービスを全てカバーできるようになりました。是非、読者の皆様の海外のお知り合いやお友達に、MessageLeafをご紹介頂けましたら幸いです。
格差社会の再来が意味するもの<続>
前回のエントリー「格差社会の再来が意味するもの」(http://messageleaf.hatenablog.com/entry/2012/12/08/003451)では、「世界レベルの中流化」は長期トレンドとして避けられない現象で、日本の現在の“中流”も普通の仕事をしている限り、年間所得1万ドルくらいの世界レベルの“中流”に吸収されていく、ということを論じました。
とはいえ、そんな波に抗って、何とかして世界の上流にいたいと考える人ももちろん多いでしょう。また、そういう人が一定数出てこないと、世の中全体で最低限の生活保障をしていく原資も生まれません。
<グローバル時代にも稼げる職種とは>
前回紹介した佐々木俊尚さんのメルマガの中で論じられていますが、「ザ・ワーク・オブ・ネーションズ」では、グローバル時代には以下の三つの職種区分が生まれつつあるとされています。
・「ルーティン・プロダクション(生産)サービス」
・「インパースン(対人)サービス」
・「シンボル・アナリティック(分析)サービス」
ルーティン・プロダクションサービスが「モノやデータを取り扱う単純作業」、インパースンサービスが「人間に対して直接供給される単純作業」ということで、要はどちらもコモディティの位置づけです。ということは、良くても世界の中流レベルということです。
で、最後のシンボル・アナリティックサービスということになるわけですが、
>>
ここにはソフトウェアなどさまざまな研究者・技術者、公共関係の専門家、投資家、法律家、さらに各種コンサルタント、広告プランナー、ディレクター、デザイナー、出版人、大学教授などが含まれるとされています。これらの仕事の特徴は、以下のようなものです。
「シンボル操作によって問題点を発見し、解決し、あるいは媒介する。彼らは、現実をいったん抽象イメージに単純化し、それを組み替え、巧みに表現、実験を繰り返し、他分野の専門家と意見交換をしたりして、最後には再びそれを現実に変換する。イメージ操作は分析的方法を駆使し、実験を行うことによっていっそう磨きがかかる。その道具は、数学的アルゴリズムであったり、法律論議、金融技法、科学の法則、説得や相手を喜ばせるための心理学的洞察であったり、また帰納・演繹の論理であったり、思考パズルを解く一連のテクニックである場合もある」
>>
佐々木さんはここで、「この『抽象化』こそは、これからの生き残りのために重要な能力である」と喝破されています。
僕自身、抽象化が極めて重要な能力であることについてはまったくそうだと思いますし、ここに挙げられているような職種は、世界のどこへ行っても極めて“稼げる”のは間違いないでしょう。ただ、残念ながら社会全体で見た時には、かなり一握りの人たちでしかないですし、その人たちだけでは富の厚みが生まれません。
やる気のある人にとって、もう少し他の戦い方はないものでしょうか。
<仮説①:徹底したグローカル職人>
僕は2つの方向性が考えられると思っています。1つは「徹底したグローカル職人」、です。同じ職人でも、世界の人から価値を認めてもらえるモノやサービスをローカル(日本)で生み出している人たちを指しています。
たとえば、伝統工芸品や美術品の作り手、本当に現地を知り尽くして外国語も話せる旅行ガイド、おもてなしを究めるホテル/旅館の従業員、といった方々。そしてさらに、僕は特に「食」の部分は期待できると確信しています。とにかく、世界的に見ても日本の食文化は奥が深く、レベルが高いですから。例えば、板前さん/シェフ、日本酒の杜氏さん、有機野菜の農家さん、などなど。
ちょうど、東洋経済オンラインで「年収200~400万円の"新中間層"が生きる道」という特集で、この「職人」の可能性について興味深い対談記事が掲載されています。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121210-00012044-toyo-bus_all&p=4
大卒の普通のサラリーマンより、中卒や高卒でも職人(ギーク)の方がトータルで見ると稼げる時代が、10年後あたりに来ていて不思議はないと思います。
<仮説②:部品・材料メーカー>
職人的な個としての戦い方ではなく、会社組織の中で戦っていきたいという方もいるでしょう。その場合、やはりその企業が真の国際競争力を有しているか、そうした舞台で戦って成長していく気概を組織として持っているかどうかが、あたりまえですがカギになります。
では、どういった企業が生き残れそうなのか。まあ、ユニクロや楽天などというところは簡単に想像つきますが、もうちょっと地味だけれど良い戦いを続けていける会社/業界はあります。それは、要素技術の強さを活かした素材産業です。
僕が就職活動していた頃、就職人気という意味では金融が全盛期でしたが、その時期から「日本の金融業なんて世界で見たら全然競争力があるように思えない。真に国際競争力を持っているのはメーカー、それも完成品メーカーを支える素材産業(部品・材料メーカー)であり、そういった企業で海外事業をみっちりやりたい」と思って就活していました。結局、住友電気工業という会社に就職したわけですが、当時の仮説が当たっていたのかどうか検証してみましょう。
↓は、日本経済新聞の2年前の記事「『失われた20年』に市場価値高める 1位はユニ・チャーム」に出ている表からとったものです。
(http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD240A3_U0A221C1TJ2000/)
1990年から2010年の20年間で、時価総額がどれだけ増えたかを比較可能な上場1428社で日本経済新聞が調べた結果の上位20社がこれ、です。
順 |
社 名 |
時価総額 |
増加率 |
1 |
6,850 |
9.6 |
|
2 |
2,669 |
8.9 |
|
3 |
12,114 |
7.9 |
|
4 |
3,245 |
7.7 |
|
5 |
ケーヒン |
1,372 |
7.5 |
6 |
56,952 |
6.0 |
|
7 |
三菱UFJリース |
2,849 |
5.3 |
8 |
9,637 |
5.0 |
|
9 |
オリックス |
8,719 |
5.0 |
10 |
信越化学工業 |
19,078 |
4.9 |
11 |
ホンダ |
59,143 |
4.7 |
12 |
933 |
4.6 |
|
13 |
スズキ |
11,350 |
4.6 |
14 |
3,812 |
4.5 |
|
15 |
HOYA |
8,648 |
4.3 |
16 |
13,006 |
4.2 |
|
17 |
6,716 |
4.2 |
|
18 |
SMC |
10,062 |
4.1 |
19 |
エア・ウォーター |
2,002 |
4.0 |
20 |
ローム |
6,180 |
3.9 |
いやぁ、渋~いメーカーが沢山並んでいるではないですか。記事中にもありますが、「新興国勢がまねできない高い技術力を誇る部品・材料と、高齢化社会に対応した医療が、日本企業の中長期的な成長分野であることを示した」形になっているのがよくわかると思います。
部品・材料メーカーが逆風の中なぜ競争力を保ち続けられているのかには、3つの理由があると考えています。
1つは、要素技術というものは初期投資してから芽が出るまで比較的時間がかかること。短期利益を追うアングロサクソン型の企業には、不向きです。2つめには、半導体のように“切った張った”のマネジメントの機動性が求められるものでないこと。この2つの特性が、日本の組織運営のスタイルにうまく嵌っているのでしょう。
最後の3つめの理由は、消費財とは違って「長年培った信頼関係」というのれん資産が活かせること、です。部品・材料は定義によりB2Bで他のメーカーに供給するわけですが、質の高い部品を使わないと、生産ラインが止まったりリコールが起きたりと結局高くつくことになるので、単純な量産品でない限り、「はったりは利かないけれど、しっかり長期のお付き合いを続ける」日本人に得意な商売モデルが成り立ちやすいのです。
ということで、例えばフランスやイタリアのブランド産業よろしく、日本の部品・材料の製造業というのは結構根源的な強みがあり、今しばらくはこうした企業で働いている人は旧中間層のレベルをしっかり確保できるのではないか、と考えます。あとは、前述した「食」がらみのメーカーさんや外食産業も、企業単位でまだまだ世界で戦える余地がありそうですね。
<グローバル化はピンチでもあるけどチャンスでもある>
「徹底したグローカル職人」にしても、「部品・材料メーカー」にしても、ポイントは「世界で戦っていけるだけの尖った強みを持って、世界中の人を顧客にする」というところにあります。「グローバル化」により中国やインドの人たちが豊かになって世界全体でみると多様な形で富が増えているというのは、こうした人たちや組織にとっては、ピンチどころか絶好のチャンスなわけです。
ということで、上述のような成長分野で頑張る日本人がたくさん出てきてほしいし、力もやる気もある人がそいういう分野で早く活躍できるように社会構造の変革を促していくことは必要と思っています。しかし、かといってその人たちがマジョリティになるというのは、楽観視に過ぎます。
「世界の総中流化」という苦い真実に対してケシカランと言っても始まりません。むしろ、目をそむけて威勢の良い文言を並べ真実をカモフラージュして感じないようにしてしまうことこそ、ケシカランことだと思います。また、困った困ったと傍観して何もしないことが、一番困ったことです。我々がすべきは、苦い真実を前提として受け容れ、個々の人生や社会をそれでも少しでも良いものになるように設計していく、ということでしかないのですから。