格差社会の再来が意味するもの<続>
前回のエントリー「格差社会の再来が意味するもの」(http://messageleaf.hatenablog.com/entry/2012/12/08/003451)では、「世界レベルの中流化」は長期トレンドとして避けられない現象で、日本の現在の“中流”も普通の仕事をしている限り、年間所得1万ドルくらいの世界レベルの“中流”に吸収されていく、ということを論じました。
とはいえ、そんな波に抗って、何とかして世界の上流にいたいと考える人ももちろん多いでしょう。また、そういう人が一定数出てこないと、世の中全体で最低限の生活保障をしていく原資も生まれません。
<グローバル時代にも稼げる職種とは>
前回紹介した佐々木俊尚さんのメルマガの中で論じられていますが、「ザ・ワーク・オブ・ネーションズ」では、グローバル時代には以下の三つの職種区分が生まれつつあるとされています。
・「ルーティン・プロダクション(生産)サービス」
・「インパースン(対人)サービス」
・「シンボル・アナリティック(分析)サービス」
ルーティン・プロダクションサービスが「モノやデータを取り扱う単純作業」、インパースンサービスが「人間に対して直接供給される単純作業」ということで、要はどちらもコモディティの位置づけです。ということは、良くても世界の中流レベルということです。
で、最後のシンボル・アナリティックサービスということになるわけですが、
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ここにはソフトウェアなどさまざまな研究者・技術者、公共関係の専門家、投資家、法律家、さらに各種コンサルタント、広告プランナー、ディレクター、デザイナー、出版人、大学教授などが含まれるとされています。これらの仕事の特徴は、以下のようなものです。
「シンボル操作によって問題点を発見し、解決し、あるいは媒介する。彼らは、現実をいったん抽象イメージに単純化し、それを組み替え、巧みに表現、実験を繰り返し、他分野の専門家と意見交換をしたりして、最後には再びそれを現実に変換する。イメージ操作は分析的方法を駆使し、実験を行うことによっていっそう磨きがかかる。その道具は、数学的アルゴリズムであったり、法律論議、金融技法、科学の法則、説得や相手を喜ばせるための心理学的洞察であったり、また帰納・演繹の論理であったり、思考パズルを解く一連のテクニックである場合もある」
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佐々木さんはここで、「この『抽象化』こそは、これからの生き残りのために重要な能力である」と喝破されています。
僕自身、抽象化が極めて重要な能力であることについてはまったくそうだと思いますし、ここに挙げられているような職種は、世界のどこへ行っても極めて“稼げる”のは間違いないでしょう。ただ、残念ながら社会全体で見た時には、かなり一握りの人たちでしかないですし、その人たちだけでは富の厚みが生まれません。
やる気のある人にとって、もう少し他の戦い方はないものでしょうか。
<仮説①:徹底したグローカル職人>
僕は2つの方向性が考えられると思っています。1つは「徹底したグローカル職人」、です。同じ職人でも、世界の人から価値を認めてもらえるモノやサービスをローカル(日本)で生み出している人たちを指しています。
たとえば、伝統工芸品や美術品の作り手、本当に現地を知り尽くして外国語も話せる旅行ガイド、おもてなしを究めるホテル/旅館の従業員、といった方々。そしてさらに、僕は特に「食」の部分は期待できると確信しています。とにかく、世界的に見ても日本の食文化は奥が深く、レベルが高いですから。例えば、板前さん/シェフ、日本酒の杜氏さん、有機野菜の農家さん、などなど。
ちょうど、東洋経済オンラインで「年収200~400万円の"新中間層"が生きる道」という特集で、この「職人」の可能性について興味深い対談記事が掲載されています。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121210-00012044-toyo-bus_all&p=4
大卒の普通のサラリーマンより、中卒や高卒でも職人(ギーク)の方がトータルで見ると稼げる時代が、10年後あたりに来ていて不思議はないと思います。
<仮説②:部品・材料メーカー>
職人的な個としての戦い方ではなく、会社組織の中で戦っていきたいという方もいるでしょう。その場合、やはりその企業が真の国際競争力を有しているか、そうした舞台で戦って成長していく気概を組織として持っているかどうかが、あたりまえですがカギになります。
では、どういった企業が生き残れそうなのか。まあ、ユニクロや楽天などというところは簡単に想像つきますが、もうちょっと地味だけれど良い戦いを続けていける会社/業界はあります。それは、要素技術の強さを活かした素材産業です。
僕が就職活動していた頃、就職人気という意味では金融が全盛期でしたが、その時期から「日本の金融業なんて世界で見たら全然競争力があるように思えない。真に国際競争力を持っているのはメーカー、それも完成品メーカーを支える素材産業(部品・材料メーカー)であり、そういった企業で海外事業をみっちりやりたい」と思って就活していました。結局、住友電気工業という会社に就職したわけですが、当時の仮説が当たっていたのかどうか検証してみましょう。
↓は、日本経済新聞の2年前の記事「『失われた20年』に市場価値高める 1位はユニ・チャーム」に出ている表からとったものです。
(http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD240A3_U0A221C1TJ2000/)
1990年から2010年の20年間で、時価総額がどれだけ増えたかを比較可能な上場1428社で日本経済新聞が調べた結果の上位20社がこれ、です。
順 |
社 名 |
時価総額 |
増加率 |
1 |
6,850 |
9.6 |
|
2 |
2,669 |
8.9 |
|
3 |
12,114 |
7.9 |
|
4 |
3,245 |
7.7 |
|
5 |
ケーヒン |
1,372 |
7.5 |
6 |
56,952 |
6.0 |
|
7 |
三菱UFJリース |
2,849 |
5.3 |
8 |
9,637 |
5.0 |
|
9 |
オリックス |
8,719 |
5.0 |
10 |
信越化学工業 |
19,078 |
4.9 |
11 |
ホンダ |
59,143 |
4.7 |
12 |
933 |
4.6 |
|
13 |
スズキ |
11,350 |
4.6 |
14 |
3,812 |
4.5 |
|
15 |
HOYA |
8,648 |
4.3 |
16 |
13,006 |
4.2 |
|
17 |
6,716 |
4.2 |
|
18 |
SMC |
10,062 |
4.1 |
19 |
エア・ウォーター |
2,002 |
4.0 |
20 |
ローム |
6,180 |
3.9 |
いやぁ、渋~いメーカーが沢山並んでいるではないですか。記事中にもありますが、「新興国勢がまねできない高い技術力を誇る部品・材料と、高齢化社会に対応した医療が、日本企業の中長期的な成長分野であることを示した」形になっているのがよくわかると思います。
部品・材料メーカーが逆風の中なぜ競争力を保ち続けられているのかには、3つの理由があると考えています。
1つは、要素技術というものは初期投資してから芽が出るまで比較的時間がかかること。短期利益を追うアングロサクソン型の企業には、不向きです。2つめには、半導体のように“切った張った”のマネジメントの機動性が求められるものでないこと。この2つの特性が、日本の組織運営のスタイルにうまく嵌っているのでしょう。
最後の3つめの理由は、消費財とは違って「長年培った信頼関係」というのれん資産が活かせること、です。部品・材料は定義によりB2Bで他のメーカーに供給するわけですが、質の高い部品を使わないと、生産ラインが止まったりリコールが起きたりと結局高くつくことになるので、単純な量産品でない限り、「はったりは利かないけれど、しっかり長期のお付き合いを続ける」日本人に得意な商売モデルが成り立ちやすいのです。
ということで、例えばフランスやイタリアのブランド産業よろしく、日本の部品・材料の製造業というのは結構根源的な強みがあり、今しばらくはこうした企業で働いている人は旧中間層のレベルをしっかり確保できるのではないか、と考えます。あとは、前述した「食」がらみのメーカーさんや外食産業も、企業単位でまだまだ世界で戦える余地がありそうですね。
<グローバル化はピンチでもあるけどチャンスでもある>
「徹底したグローカル職人」にしても、「部品・材料メーカー」にしても、ポイントは「世界で戦っていけるだけの尖った強みを持って、世界中の人を顧客にする」というところにあります。「グローバル化」により中国やインドの人たちが豊かになって世界全体でみると多様な形で富が増えているというのは、こうした人たちや組織にとっては、ピンチどころか絶好のチャンスなわけです。
ということで、上述のような成長分野で頑張る日本人がたくさん出てきてほしいし、力もやる気もある人がそいういう分野で早く活躍できるように社会構造の変革を促していくことは必要と思っています。しかし、かといってその人たちがマジョリティになるというのは、楽観視に過ぎます。
「世界の総中流化」という苦い真実に対してケシカランと言っても始まりません。むしろ、目をそむけて威勢の良い文言を並べ真実をカモフラージュして感じないようにしてしまうことこそ、ケシカランことだと思います。また、困った困ったと傍観して何もしないことが、一番困ったことです。我々がすべきは、苦い真実を前提として受け容れ、個々の人生や社会をそれでも少しでも良いものになるように設計していく、ということでしかないのですから。